【レポート】シリア紛争における"認知戦“の経緯 2/8
レポート「シリア紛争における"認知戦“の経緯」を全8回にわたりお届けします。
「デモの画像はカタールで撮影されたヤラセである」
まず、シリア紛争の簡単な流れを説明すると、第2次世界大戦後にフランス委任統治領から独立し、共和国になったシリアは、長らくクーデター頻発の国だったが、1970年にハーフェズ・アサド国防相がクーデターで実権を握り、翌71年に大統領に就任。アラブ最強の秘密警察システムを築いて、独裁体制を敷いた。ハーフェズは2000年に病死するが、息子のバッシャール・アサドが独裁を世襲する。
実はその間、中東問題での反米リベラル系言論界の一部では、アサド独裁の恐怖支配の実態から注目を反らす誘導はすでに行なわれていた。冷戦時代、父アサドの政権はソ連と協力関係にあり、イスラエルと対立していたが、父アサドはパレスチナ抵抗勢力の一部を支援し、自分たちをパレスチナ解放の味方だとプロパガンダした。実際には父アサド政権は、自分たちの意のままに動かないPLO主流派であるヤセル・アラファト派を弾圧し、パレスチナ解放運動の分裂を進めていたのだが、自らをパレスチナ解放運動支援者と宣伝することで、アラブ圏外の欧米社会のパレスチナ支持層の一部にアサド政権支持層を獲得していた。ところが2011年初頭、ネット社会を背景にアラブ圏で民主化運動「アラブの春」が発生し、チュニジア、エジプトの独裁が打倒される。その頃、シリアでも民主化を求める声がサイバー空間では少しずつ生まれていた。
ところが2011年初頭、ネット社会を背景にアラブ圏で民主化運動「アラブの春」が発生し、チュニジア、エジプトの独裁が打倒される。その頃、シリアでも民主化を求める声がサイバー空間では少しずつ生まれていた。
サイバー空間での言論はシリア国外でも可能であり、当局も統制できない。そうした言論空間はかねてより細々とは存在していたが、同年1月下旬頃より反体制派のサイトが活性化した。もっとも、当時のシリアは秘密警察の監視がきつく、書き込みのほとんどはシリア国外とみられる。
もっとも、アサド政権は早い段階から、民主化運動の萌芽を警戒し、対策を急いだ。たとえば2011年1月31日付『ウォールストリート・ジャーナル』のインタビューにアサド大統領本人が登場し、「シリアでは政府主導の民主化改革が進んでおり、エジプトのような反体制運動は起きない」と主張。自身を改革派とみせようとソフトな語り口で宣伝に勤しんだ。
そうした宣伝と並行して、アサド政権は実際には民主化運動を弾圧する。国内在住のブロガーやモスレム同胞団の幹部を逮捕するなどして、早期に反体制運動の芽を潰した。同2月に何度かデモの呼びかけがネット上で行なわれたが、すべて不発だった。
しかし、同3月5日、エジプトなどのニュースをみた南部の町・ダラアの少年たちが、イタズラで反政府スローガンの落書きをし、秘密警察に逮捕される。この情報は翌3月6日に反体制派サイト『フリー・シリア』に掲載され、シリア国内でも広く伝わった。同地では逮捕された少年たちの所属する部族が、少年たちの解放を求める声を上げ、そこから民主化要求デモがシリア全国に広がり、それはすぐに反体制デモに拡大していった。
デモを主導したシリアの若者たちは、市長村ごとに「地域調整委員会」を作った。反体制デモはアサド政権の秘密警察や治安部隊、政権派民兵らから実弾で弾圧されたが、武器を持たないデモ隊の側は、デモの様子を動画で撮影し、YouTubeで公開することで世界に事実を知らせ、アサド政権への圧力を期待した。